複数の国での大学院進学と研究—ロンドン、シンガポール、ケンブリッジ【XPLANE TIMES 院留学の本棚】

本記事はXPLANE TIMES(ニュースレター)第4号(2024年7月7日発行)内の連載企画『院留学の本棚』に掲載された記事です。
連載企画『院留学の本棚』では、海外院生の大学生活、研究生活に焦点を当て、大学院留学についてあまり知られていないトピックや、留学志望者にとって有益な情報を提供する記事を掲載しています。第7回の今回は、シンガポールの大学院からイギリスの大学院に移られるというユニークな経歴で政治学を専攻されている上砂さんにご寄稿いただきました。

海外留学というと、多くの皆さんはアメリカやイギリスの「最先端」の大学院に進学して、修士号や博士号を取得するということをイメージされるだろう。学部時代の私もそのように平然とした「海外」の大学院への進学に憧れを頂いたわけだが、幸か不幸か紆余曲折を経て、これまで日本で修士号を取得したあと、ロンドン、シンガポールそしてケンブリッジと異なる国と都市での大学院生活を経験してきた。さらに言えば、専門が東南アジア政治ということもあり、これまで東ティモールとインドネシアで合計2年近くの研究滞在を経験してきた。イギリスで東南アジア政治をやっている日本人という、かなり奇妙なバックグラウンドから今回このように記事を書く機会を頂くことになった。

コーネル学派 「巡礼の旅」

そもそも私が初めて海外学位留学を経験したのは、2019年にイギリスのLondon School of Economics and Political Science (LSE)の政治学部の修士課程に進学したときだった。これも変な話で当時はオーストラリアの博士課程に進学しようと思っていて奨学金の準備もしていたわけだが、最終的にどうもオーストラリアの先生とアプローチが違うことがわかり、ダメもとで出していたLSEから修士課程の入学を許可され、奨学金が先に決まっていたので進学したというあまり参考にならない留学の動機だった。なぜLSEの政治学部にしたかというと、そこに兼ねてから指導を仰ぎたかったジョン・サイデル教授 (比較政治、東南アジア研究)がいたからに他ならない。1980年代に20世紀の社会科学に最も影響を与えた本の一つである『想像の共同体』がCornell大学のベネディクト・アンダーソンによって出版されたのだが、サイデルはまさにこのアンダーソンの弟子だった。大阪大学大学院在学中に私は東ティモール独立紛争のナショナリズムを研究するために半年間東ティモールとインドネシアでフィールドワークをしていたこともあり、アンダーソンはもちろんサイデルの作品の多くに触れてきた。単なる東南アジア政治の情勢分析研究ではなく、そこからより理論的な枠組みを作り出してきた彼らの研究に強い刺激を受けたわけである。

 LSEでの1年間はあっという間だったが、コースワークは厳しくも充実しており、サイデル教授とも何度か深い議論がする機会を持つことができた。そして何よりその後イギリスに帰ってくる理由の一つにもなった多くの友人ができた。在学中に東南アジア研究のトップジャーナルから論文を出版する等、研究成果も少しずつ世の中に認められるようになった。当時コースワークをやりながら並行して博士課程への出願を準備してきたわけであるが、博士課程への出願は一筋縄には行かなかった。LSEとケンブリッジの博士課程に応募するも不合格。一方でシンガポール国立大学(NUS)は業績を高く評価してくれ、新設されたComparative Asian Studies programmeの博士課程にフェローシップ付きでオファーを頂くことができた。東南アジアのことをやっている以上はシンガポールで博士課程をすることは決して悪い選択肢ではない上に、奨学金付きだったので、そのままNUSで博士課程に進学した。NUSでの指導教員は、インドネシア政治の専門家ダグラス・ケイメンである。彼は、コーネルでのアンダーソンの弟子で、LSEのサイデル教授の古い友人でもあった。なかなか気難しい人ではあったが、(LSEとは違って)指導はかなり丁寧にしてくれ、課題の量もかなり多かったが彼のおかげで研究者としての基礎を養うことができた。こうして私は、東南アジア研究の「コーネル学派」人たちからなぜか米国の外でトレーニングされるという経験をしたわけである。

それ以外にもNUSでの研究はコロナ下ではあったもののそれなりに充実していた。米国の博士課程に倣い2年間はみっちりコースワークをすることになっているのだが、履修者の数も欧米の修士プログラムと違ってかなり少ない上に、1つの授業が大体2時間半くらいあるので、LSEでのコースワークとは比較にならないほどエンゲージメントを求められたし課題も多かった。また、ダグラスの計らいで、当時プリンストン大学で政治学博士を取得してYale-NUS Collageに新しく助教授として採用されたスティーブ・モンローが国際政治経済学 (IPE)のチュートリアルをマンツーマンでやってくれることになった。これはせっかくなら米国の一流大学の政治学博士から先端の議論や手法を学んだ方が良いというダグラスの計らいだった。手法も対象地域も全く違う教員ではあったが、そのおかげで地域研究を超えたIPEの理論や実証研究におけるアプローチ等多くを学ぶことができた。これは世界のトップ大学を出た若手研究者を高待遇で引き抜いてくるのがうまいNUSならでは機会であったと思う。

どこで博士論文を書くかという問題

そうこうしているうちに、NUSでのコースワークを始めてから一年半が経とうとしていた。NUSでの教育には大変満足していたが、いざ博士論文の準備をし始めてみるとどうもしっくりこない環境があった。ご存知の通り、シンガポールは事実上一党独裁の国であり、民主主義ではない。大学内の規律も厳しく、キャンパス内でのアルコールは厳禁だし、結社の自由もない。大学の教育も制度化された競争原理が確立されており、学生も教員もそれにしたがって常に競争を迫られる環境だった。ロンドンでの生活ですっかりリベラリズムに甘やかされた私にとって、シンガポールでの生活はどこか窮屈だった。また多くの学生が東南アジアや南アジアから来ており、彼ら彼女たちは自国の研究をしている人が大半というところにもどこか議論の幅の狭さを感じることがあった。この人たちの多くはすでに自国の大学でテニュア(終身雇用資格)を取っている人たちも多く、NUSには博士号の取得を主目的に来たという感じなので、例えば査読論文の話や博士の後のキャリアの話をするにも、どうもしっくりこないことが多かったわけである。

同時に、博士号取得後のキャリアにも不安があった。確かにNUSは世界有数のトップスクールであり、東南アジア研究でも屈指の研究機関である。しかし、社会科学の教員ポストの採用というのはかなり「どこの地域で博士号を取得したか」が重要になることが多い。例えば、米国の大学院のテニュアポストは基本的に米国で博士号を取得した人が就くことが多い、仮にオックスフォードやケンブリッジで博士号をとったとしても博士号取得後の若手が米国でテニュアを狙うのはかなり難しい。シンガポールの場合どこで就職先を探すかという点で懸念が残った。まず、外国人である自分は、NUSで博士号をとった場合、そのままNUSで教職に就くのはほぼ不可能である (NUSのテニュアは基本的に欧米のトップ大学の博士号取得者が大半)。また日本人である自分がそこからヨーロッパのアカデミアの市場に入り込めるかというとかなり怪しい。そうなると結局選択肢は、日本でテニュアを取るか中国や香港の大学を狙うかに限られる。ただ政治学という分野上、中国や香港での研究活動はかなり制限される可能性があり、日本に帰りたいかというと帰りたくはなかった。

そんな中、前回不合格となったケンブリッジ大学の政治国際学部の開発学研究所に新たに米国のノースウェスタン大学政治学部から中国とインドネシア政治を専門にするウィリアム・ハースト教授が移動してきた。ノースウェスタン大学は、政治学の質的研究のメッカで、ここの研究者の論文は私もたくさん読んできた。イギリスの博士課程は3〜4年であり、ケンブリッジの場合コースワークはなく淡々と研究をして博士論文を執筆するだけ。仮にNUSに残ってもあと3年はかかることを考えると、この際ケンブリッジに移って博論を書くにもありではないかという考えが浮かんだ。仮にケンブリッジで博士号を取ったとすると、就職の面では出せるところが格段に増える。とはいえ合格する確率は極めて低いので、指導教員には内緒で出願の準備を進め、推薦状はLSEのサイデル教授とYale-NUSのスティーブに書いてもらった。結果、PhD in Politics and International StudiesとPhD in Development Studiesに出願、前者は不合格だったが、後者からハースト教授の指導の下で博士課程をやるということでオファーを頂くことができた。

留学費用をどう工面するかという問題もあったので、その辺りをある程度肩をつけた後、ケンブリッジからオファーをもらったことをNUSの指導教員のダグラスに伝えると、彼は “PhD from Cambridge is better than PhD from NUS”と言って、ケンブリッジの指導教員とうまくやっていけるならという条件で、ケンブリッジ行きを勧めてくれた。これは割とアメリカ人の学者の典型的な反応だということがわかった。とはいえ、自分自身もNUSで多くの先生たちにお世話になったし、彼らが植民地主義的な知的生産に対抗してNUSを中心にアジアにおけるアジア研究を推進していることもよく知っていた。そのため、東南アジア植民地支配の根源のようなケンブリッジに行くというのは、そのスクールの違いからアジア研究者にとってかなり抵抗があることがある。これは特段アジア研究をしているアジア人にとってはかなりセンシティブな問題となる場合もある。

■ ケンブリッジでの研究生活

ただ結果的に、私はfull-fundのNUSでの博士課程を中退して、ケンブリッジ大学に入り直すことにした。それは、身も蓋もないがやはりパブで飲みながら論文を書くのが自分の中で一番効率が良かったことと、博士号取得後のキャリアの多様性だった。実際にケンブリッジに来てみて、やはり論文を書く環境としては最高だった。毎日様々なテーマでセミナーが開催されていて、自由に参加できるし、来ている学生の国籍もより多様で自分の議論の枠もとても広がった。ここではケンブリッジ大学のジャッジビジネススクールでTAとして「新興国の科学技術政策」のセミナーを担当し、アジアやアフリカから留学に来ていた官僚やビジネスエリートたちの学生たちとたくさん議論することができたし、何よりビジネススクールで教えたという経歴は自分のキャリアにとってもプラスになった。


ケンブリッジ大学でカンファレンスの受付を行う筆者

一方で、ケンブリッジの教育はその知名度とは裏腹に、必ずしも評価に値するものではなかった。そもそも博士課程は必須の授業は研究手法のセミナー1つだけであり、それもとても研究手法を教える授業ではなくて単にみんなで議論するという程度でほぼ学びはない。修士課程の授業もいくつか覗いたが、セミナーは僕の先輩や同期にあたる博士課程の学生が担当しており、ポスドクやテニュアの教員がセミナーも担当するLSEやNUSと比べるとそのクオリティはかなりまちまちであった。ケンブリッジ大学は学部生に対してはカレッジでみっちり指導するのだが、修士課程以上の教育になるとかなりお粗末になる。とはいえ、ケンブリッジに修士課程で来る学生たちは大変優秀な人たちなので、みんなそれなりに成果を出して修了していくわけだが、払っている授業料とそこで得た学びを比べると割に合っているとはあまり思えない。

う一つ残念だったのは、Cambridge School of Southeast Asian Historyと称される程、ケンブリッジ大学はかつて東南アジア研究の重要な拠点だったし、今でもそれなりに著名な先生たちが在籍しているのだが、大学全体として、東南アジア研究に対する関心はかなり低いことがわかった。学生の大半は、ヨーロッパ政治や国際関係史、政治理論をやっている人たちで、シンガポールから来た私からすると、どことなくとてもコロニアルな雰囲気だった。これはまぁ大英帝国時代に植民地行政官を養成してきた大学だから仕方ないといえば仕方ないのだが. . .。

とはいえ、すでに自分の中にいくつか面白いアイデアがあり、それをいろんな人たちと議論して知的好奇心を満たす場としては、ケンブリッジは最高の場所である。その意味で僕にとって、NUSで2年間みっちり修行してからケンブリッジに来たことは、遠回りをしたものの逆に良かったと思っている。


所属するケンブリッジ大学クイーンズ・カレッジの外観

■ おわりに

このように、アジアとイギリスを行ったり来たりしているわけだが、この記事を書いているこの瞬間はインドネシアに滞在している。2023年の10月からフィールドワークのためにインドネシアに滞在して、現地でインタビューを行ったり、資料を収集したりしてきた。7月にはフィールドワークを終え、日本を経由してイギリスに帰国する予定だ。学部生の頃に平然と考えていた海外留学とはある意味全く違う形で海外を彷徨う羽目になった。だが、紆余曲折あり、11月からはロンドンの某シンクタンクで研究員をやることになった。振り返ると、「イギリスにいるけどなぜか東南アジアのことをよく知っている日本人」というこのバックグラウンドは欧米ではかなり希少だと思う。アジアとイギリスを転々としてきたこの経験は、研究はもちろん仕事でも役に立つことは多い。特にイギリスは、多様性や異なる経験を評価する傾向にあり、シンガポールやインドネシアさらには東ティモールでの経験を高く評価してくれる人も多かった。彼らがみるアジアとは違った視点でアジアを見つめてきた自分の経験や研究は、欧米はもちろん日本のアカデミアやポリシーサークルでの議論をより多様なものする上で、重要であるということがわかってきたし、私のキャリアも今後、「イギリス–日本–東南アジア」という関係性の中で培われていくように思う。その意味で、「海外留学」や「海外就職」という時に、何も「一つの海外」に捉われる必要はなく、のらりくらりいくつかの拠点を転々とするというのも悪くない選択なのではないかと思う。


フィールドワークで訪れたインドネシア北マルク州テルナテにある某レストランのトイレからの絶景
  • URLをコピーしました!