こんにちは。私は、スイスのチューリッヒ大学附属子供病院のMR研究所で神経科学の PhD を始めて3年目になります。”留学”を打ち出すよりも”移民として生きる”というタイトルにしたのは、スイスで博士課程をすることは労働・移住の側面が強いなと感じているからです。今回は、ヨーロッパ・スイスでの研究・暮らしの魅力と苦労についてお伝えします。
■ なぜスイスにしたのか
スイスで博士課程を始める前は、私はフィンランドの Turku という小さな街で修士課程をしていました。フィンランドの大学院ではTurku Brain and Mind Centreを中心に人間の研究に特化した神経科学の修士課程プログラムがあり、また高福祉・男女平等・幸福度1位の社会で暮らしてみたいと思って入学を決意しました。実際フィンランドはすごく平和で暮らしやすく、修士課程の研究も楽しかったのですが、博士課程の給料のために自分で複数のグラント(研究資金)を獲得しなければならないケースが多くあると知りました。博士課程在学中は、ただでさえ研究のストレスに常時苛まれる可能性が高いので、経済的な不安は極力なくしたいと考えました。そこでヨーロッパの中でも博士課程中、そこそこ高いお給料が4年間保証される(自分で研究資金を獲得しなくても良い)国のトップがスイス、ノルウェー、デンマークだったので(参考リンク)、その中から順番に興味のある研究所に連絡してポジションを得られた所に行こうと作戦を立てました。そして一番初めに連絡を取った教授が現所属先の指導教官になりました
■ スイスのPhD選考の過程
PhD の選考には2つのルート (track I, track II) があり、track I は一般公募(書類選考と2つのインタビューが希望の所属先グループ複数に対して行われる方式)で、track II では指導教官になってくれる教授を個人で打診しポジションを交渉する方式です。track I は春と秋の年2回選考があるのに対し、track II は基本的にいつでも応募できるので、私は後者の方法で個人的に指導教官にメールを送り、現地でのインタビューを1回経てオファーを獲得しました。具体的には、修士課程卒業の1年前に興味のある研究所や教授をリストアップし、ポジションの空きがあるか複数人にメールを送りました。メールには、CV と共に自分のバックグラウンドや研究の興味を記し、自分が相手の研究室にとって ”great fit” であることを強調し、可能性のある PhD プロジェクトやポジションの空きがあるかを尋ねました。空きがない場合や既に内部のインターン生や現地の修士課程の学生に内定をあげている場合も多くあるので、track II で挑戦したい方はめげずにコンタクトすることをオススメします。※教授は学生からこのようなメールを1日に多数もらうので、相手の研究室のHPや論文を読み込んでからメールを構成しましょう。(この文章を読んで準備しようとしている皆さんは大丈夫だと思いますが)結構な割合で、研究室の手法・扱うトピックとかけ離れたことをやりたいといった、下調べが不十分なメールが届くそうです。また、教授に送るメールとは別に、研究室のウェブサイトや LinkedIn からその研究室の PhD 生やポスドクの連絡先を見つけ、彼らに指導教官の人柄・指導スタイルなどの評判を事前に聞いておくとミスマッチを防げる可能性が高まります。
■ スイスPhDのリアル
お給料・生活
最初に少し記載した通り、ヨーロッパの中でもスイスは特に給与水準が高く、博士課程の学生であっても、大学や研究機関から正式な雇用契約のもとで給料が支払われます。一般的に月給は約4000〜7000スイスフラン(CHF)程度(*日本円換算で月給約70〜120万円、4/12レート換算:1CHF=175.85円)で、外国人の場合はこの月給から約400〜700CHFの税金や社会保険料が間引かれます。特に、他国の PhD 生が授業料を払って研究しているケースを考えると、生活費をまかなうには十分な給与が支払われるスイスは経済的に非常に恵まれた環境だと言えます。大学や研究所によって異なりますが、UZHやETHでは学年が上がるごとに給料も増えます。
一方で、スイスの PhD のお給料が他国と比較して高めに設定されているのは、家賃、食費、保険、交通費など、生活に必要なコストもかなり高いからです。都市部では、シェアハウスの一室(15–20 m²)でも月に 1000CHF 以上かかることが珍しくありません。またチーズ大国なので乳製品は良心的な値段ですが、卵やお肉を中心に全般的に食品は高く、私も最初の頃はスーパーで買い物をする度に財布と心が痛みました。外食もかなり高い(ぬるいラーメン一杯で 22.5CHF = 約4000円)ので友人と集まる時はホームパーティーになることも多いです。ちなみに国民が高い交通費を払っている甲斐があり、綺麗で新しい電車やトラムが日本のように時間きっちり来るため、電車での通勤にストレスはありません。
研究生活・研究の環境
私の研究室ではデータ収集やPCでできる分析がメインであるため、同僚と一緒に実験・研究するというよりは、基本的に個人プレーで各自のプロジェクトに取り組むことが多いです。指導教官との関係は個人差がありますが、比較的フラットな関係が築ける文化があり、私のメインの指導教官の二人はかなりフランクで面倒見が良いです。月に一度メインの指導教官とミーティングがあり相談・ディスカッションする他に、年に一度指導教官と外部の教授で構成される Thesis Committee で進捗状況を報告します。それぞれの分野の権威である教授陣が揃うと圧がすごいので、Thesis Committee meeting に向けて綿密な準備をします。また私のPhDプログラムでは在籍中のどこかで学部生向けの基礎授業の Teaching Assistant (TA) をしたり、自分に必要と思われる授業やセミナーを数個選択し受講する必要があります。最後にDefenceと呼ばれる口頭試問(Thesis Committee に向けてプレゼンし、彼らから1時間ほど質問責めにされる)を突破し、研究成果が博士号を授与するに値すると認められて博士号が取得できます(博士号取得に必要な論文の本数の条件は特に定められていません)。私の周囲では約4年程度で PhD を取得することが多いです。
チューリッヒでの PhD プログラムを統括している Life Science Zurich Graduate Schoolの2023年度末のレポートによると、博士課程在籍学生の約60%は女性で71%以上は外国人と非常に多様性に富んだ環境となっています。ただこれは分野や研究室によっても違いは大きいようで、私のように大学病院や臨床寄りの研究室だと、スイス人(またはドイツ人)の割合は高めになる傾向があると思います。研究は基本的に全て英語ですが、病院からのメールやイベントはドイツ語が多いので、事前に自分の行きたいラボがどのくらい国際的なのか探りを入れておくのも大事だと思います。
また、スイスのPhDは、基本的に労働者としての権利があるため、ワークライフバランスがしっかりと守られている印象です。(フィールドや実験対象にも依りますが)過度な残業はあまり奨励されず、週末や夜の時間はプライベートを大切にする文化があります。私の研究室では動物や細胞のお世話をする必要がないこともあり、18時以降はほぼ誰も研究室に残っていません。自然が豊かなスイスでは、金曜日は早めに仕事を終わらせて湖のそばでのんびりしたり、週末にハイキングやスキーなどのアウトドア活動を楽しむ人が多く、仕事と生活のメリハリをつけやすいです。スイスでは年間に5週間の有給休暇が保証されており、学会出張とは別に、周辺のヨーロッパ諸国へ旅行したり日本に一時帰国することができるのも嬉しいところです。
■ You should be “integrated” into society!?
スイスでは外国人の人口が非常に多く、2022年時点で、15歳以上の定住人口の約31.7%(約230万人)が外国生まれであり、定住人口の40%(約300万人)が移民または移民の子供としてスイスに移住した経歴を持っています。特にチューリッヒは道を歩いている人の見た目も本当に多様なので、特に人種で差別されたという経験は今の所ほぼありません。ただ、スイスの公用語の一つであるドイツ語(正確にはスイス・ジャーマン)の壁は高く、ドイツ語が話せるか話せないかで日常生活の難易度や地域への溶け込みやすさが全然変わってくると思います。
例えば、職場でドイツ語での会話が盛り上がっているところ、毎回毎回英語に切り替えてもらうのも申し訳ないし(大体の場合は英語に切り替えてくれますが)、私のパートナーの親族の集まり等でもドイツ語が会話のメインなので、ドイツ語ができないと自分の存在が限りなく透明になったような気分になります。コメディアンの Trever Noah がどこかで、“A foreign country becomes home when you understand the language.” と言っていましたが、本当の意味でその土地に馴染もうと思ったらローカルな言語の所得は必須だということをヨーロッパに来てから実感しています。とはいえ、日々少しづつドイツ語を勉強はしているものの、PhDをやりながらドイツ語をマスターするのはキツいので(主にモチベーション管理の観点で)、時々“You should learn more German and be integrated into society!” などと朗らかに言ってくるスイス人に出会うと、私があなたをどこかアジアの国に飛ばしてあげるから、あなたもフルタイムで働きながらローカルの言語取得して現地人の会話に付いていけよ?と腹黒なことを思います笑。
様々な思い出や繋がりのある母国を離れて、海外でゼロから生活の基盤を立ち上げて生きていくのは想像以上に苦労も多く、気軽に家族や地元の友人に会いに行けるスイス人や欧州出身の人を見て羨ましく感じることもあります。ただ、その寂しさや苦労と引き換えに、自国から遠く離れた故に得られる人生の広がりや豊かさもあると思います。海外で覚悟を持って頑張っている全ての人に向けて、人類学者の Miriam Adeney の言葉を引用して筆を置きたいと思います。
“You will never be completely at home again, because part of your heart always will be elsewhere.
Miriam Adeney
That is the price you pay for the richness of loving and knowing people in more than one place.”