■ ドイツ行きを決意するまで
ドイツで出会う日本人100人に聞くと100通りの答えが返ってきます。僕の場合、「20代後半は海外で働く」ということが、高校生の時から抱き続けてきた人生目標でした。特に当時好きだったアニメ『のだめカンタービレ』で描かれていたパリ生活に憧れ、海外の中でもヨーロッパに住んでみたいという気持ちを強く持っていました。外国での博士号取得を本気で考え始めた修士1年生の頃は、「研究をするならアメリカだ」という所謂ステレオタイプの意識ももちろんありました。しかし、「なぜ海外で研究がしたいのか・何を大事にしたいのか」と自分に問いかけたとき、「研究云々以前に自分が思い描いていた海外ライフを楽しみたい」という想い(というより本能/初心?)が強くなり(一流の研究者を志す上ではあまり褒められたモチベーションでもないかもしれませんが…)、ここに、医学といえばドイツのイメージがあったこと、さらにはドイツの博士課程は実質就職と同じで給料も出て奨学金もいらないということ(後述)と、大学の学部時代に同じドイツ語圏のオーストリアに1か月短期留学していた経験が重なり、ドイツ行きを決心しました。
その先の具体的な行き先の決定は簡単でシンプルでした。学部・修士と癌研究に従事していた僕は、Googleの検索バーに「Germany PhD Cancer」の3文字を入力しました。この時一番上にヒットした検索結果が、現所属となるドイツがん研究センター(通称DKFZ)のPhDプログラムになります。Googleでトップヒットするくらいなので、ドイツの中でも有名で素晴らしいプログラムに違いない(実際にDKFZは従業員を3000人以上抱えているヨーロッパ最大のがん研究センターです)、しかも所在地を調べるとハイデルベルクだとか。それまでドイツに来たことはなかった僕でしたが、大好きなアニメである『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』にこの街をモデルとした都市が登場しており、ますます興味を持ちました。アニメのような素敵な街、研究所の知名度も申し分ない、自分の興味とベストマッチする研究を行っている研究室がいくつもある。これらの魅力に惹かれDKFZへ出願を決意しました。
ドイツビールはどこに行ってもハズレがないです。ハイデルベルクのクリスマスマーケットは、同僚曰くドイツ国内でも特に有名な場所の一つだそう。
■ セレクションのシステムとオファーの獲得
DKFZで博士課程を始めるには、 研究所としての一般公募に応募する方法(倍率50倍…!)と、興味のあるグループリーダー に個別に連絡を取り交渉する方法(PhDの学生を募集している場合に限る)の2通りがあります。僕は前者で来ました。一般公募は1次書類選考と2次面接で構成され、夏と冬の年に2回機会があります。書類選考には世界中から700人程(僕が出した選考会では693人だったそうです)の応募があり70人程がこれに通過します。2次面接では2種類のパネル面接(修士での研究発表と指定された論文の紹介を、それぞれ3人の教授の前で行う)と、興味のあるグループリーダーとの個別面接が行われます。面接は全て英語です。どのグループリーダーが学生を募集しているかという情報は書類選考通過後に通達されます。そのため、個別面接に進むまで指導教員候補と顔見知りではないことが多く、所謂事前コンタクトも基本的に不要です。最終的に書類とパネル面接の出来で点数が付けられ、グループリーダーとのマッチングが成立した候補者のうち、点数が高い20 人程度が最終合格となります(狭き門…!)。これらの仕組みは事前に候補者に説明会を通して全て透明かされます。書類審査や面接官の選定は候補者の分野を一人一人考慮して行われ、僕のように事前にDKFZとコネクションがない応募者が不利を被らないよう、かなりフェアに行われていると思っています。僕は2021年の12月に書類を提出し、翌月に書類通過の通達を受け、さらに翌月に各種面接をオンラインで行いました。その後、資金面関連の手続きのごたつきで少し遅くなってしまいましたが、6月に正式なオファーが確定しました。DKFZは研究所なので、大学のようなセメスターの概念は存在せず、年中どのタイミングでもPhDを始められます。相談の結果、9月の中旬から始めることになり、3ヶ月でバタバタと渡独の準備をして、高校生の時から抱いていた「20代後半は海外」という人生目標を25歳で無事に達成することとなりました。
■ 学生でないが学生でもあるドイツPhD
ドイツで博士課程を始める上で取得するビザは、基本的に学生ビザではありません。代わりに就労ビザの一種である研究者ビザを取得することになります(ドイツでは役所の書類作業が遅くてとても苦労が多いというのはまた別のお話)。そのため公的な身分は’PhD student’ではなく’Doctoral researcher’となり(と言ってもPhD Studentと普通は呼ばれますが)、PhDを始めるにあたってもEmployeeとして受入研究機関とArbeitsvertrag(Employment Contract: 雇用契約)を交わすことになります。給与に関しては、税金と年金が引かれた額が振り込まれ、一般的な従業員と同じく年間30日間の有給を申請できます。これらの理由から「プロとしてきちんと働いている感」を実感することができます。
一方で、研究所でPhDを行うならではの特殊な事情もあります。一般的に博士号を与えることができるのは大学のみであるため、名義上どこかの大学に名前を登録する必要があります。DKFZの場合、多くのPhDの学生はハイデルベルク大学に名前を置いており、ハイデルベルク大学の学生証も発行されます(ドイツの面倒くさい書類システムのせいで大学への登録には異常に手間と時間がかかるというのもまた別のお話)。ただし、これはあくまで名義上の登録なので、ハイデルベルク大学の授業や行事に参加する義務はないです。学生証はなかなか便利です。美術館・博物館などは学生料金で入ることができます(2023年11月からドイツ鉄道の方針変更により、学生証で乗り放題になる恩恵は受けられなくなりました。ドイツの鉄道事情についてはそれだけで1つの記事が書けるくらい、日本の鉄道運営と異なった点がたくさんあります)。学費はなく、代わりに設備使用料を支払う必要がありますが、半年で150ユーロ程度です。日本の博士課程と比べるとかなり安いですね。
■ ホワイトな理系研究生活
ドイツ(というよりヨーロッパ全土?)で生活する上での最大のメリットと言えることの一つに、ワークライフバランスがしっかりしており休みが多いことが挙げられるでしょう。平日の稼働時間はだいたい8, 9時から17, 18時ごろまでで、日が暮れた後にも研究所に残っている学生・教員は日本より圧倒的に少ないです。土日も細胞や動物のお世話など特別な理由がない限り、基本的には誰も研究室にはいません。大学によっては日曜日は申請なく校内に入れないシステムにさえなっており、週末は休日らしく休みましょうという文化があります。さらには、金曜日は早い人は14時くらいには仕事を切り上げて週末の旅行に行く人もいます。年30日の有給も各々しっかり取るため、 2,3 週間の旅行に行くのでしばらく返事ができないというグループリーダーさえ珍しくないです。研究所によっては有給を使わないと怒られることもあります。もちろん仕事の進みが遅くなりがちにはなりますが、僕としては日中の仕事にメリハリがつけられるようになり、休みをしっかり取ることで精神面の余裕が増えました。
研究生活について、研究所でのPhDということもあり、授業を受けることも持つことも基本的にはありません(希望すれば可)。ラボでの生活はラボごとに大きく異なるので一概にまとまったことは述べられませんが、ドイツの理系博士の多くはTAC(Thesis Advisory Committee)という教授たちの前で進捗を報告する会を年に1回行います。この3~4度のTACでの報告を中間目標として日々研究をしています。ただしこれはテストではなく、あくまで進捗についての助言をもらう会という位置付けです(プレッシャーは少ない)。言語は全て英語です。ドイツ語が使えた方がメリットは多いですが、研究所にいる人の約半数はドイツ以外の国から来ており、ドイツ語を使えない職員がたくさんいます(僕のボスも中国人です)。さらに研究所にいる大半の人にとって英語は第二外国語なので、言葉が出てこず話しづらくしていてもそれを共感してくれる人が周りにたくさんおり、来た当初は英語すら本当に苦手だった僕にとって精神的に非常に優しい環境だと感じています。
■ ドイツ生物医学系PhDのお金事情
これは気になる人も多いのではないでしょうか。契約の形態によって個人差はありますが、ズバリ、生物系のドイツPhD(1年目)の場合、額面給与は毎月2600~2900ユーロ程度(今のレートで年収500万円強)の人が多いです。これは分野によって異なり、例えば工学系や数学系のPhDでは毎月4000ユーロ強になります。これだけ聞くと結構な額をもらえると感じますが、ドイツでは課される税金と年金も高いです。手取りは1750~1950ユーロ程度となります(2年目以降の手取りは2000ユーロ強)。ただし、年金についてはドイツを去った後に支払った分の払い戻しの申請をすることができます。地域差はありますが、一人暮らしの家賃が500~800ユーロ程度(シェアフラットの場合もっと安い)であることを踏まえると、贅沢ができるわけではないが自立して生活には困らない収入、となっています。僕はドイツに来る前の半年間は月収が額面20万円の日本の博士学生だったので、給料が文字通り倍以上に増え精神的な安心感も大きく変わりました。
これらドイツ研究者の給与システムは、TVL・TVödというルールに則って決定されています。E1からE15という給料カテゴリーがあり、さらにそれぞれの中でLevel 1からLevel 6と段階が分かれています。通常1年目のDoctoral ResearcherはE13 Level 1に割り振られ、2年目以降からE13 のLevel 2へと昇給していきます(それまでの職務経験によっては初めからLevel 2以上になる)。この額を100%として、このうちの何%で契約をするかによって最終的な額面給料が決まります。生物系の場合は65%の契約になることが多く、E13 Level 1の65%が上述の額となります。分野によって額が異なるのは、この契約形態が75%や100%の契約となっているからです。
■ おわりに
よく、「うまく言語化できないが、ドイツ人のマインドは日本人に似ている気がする」という意見を耳にします。僕なりの解釈としてこれは、オープンすぎるコミュニケーションを好まない人の割合が日本と同じくらいることを反映しているのだと思っています。というのも、コミュニケーションが苦手な人でも孤独にならないような雰囲気作りや、メンタルケアのシステムがしっかりしていると日々感じます。例えば喋りたいが喋りづらそうにしているときなど、きちんと待って聞いてくれる人が多いです。典型的なコミュ障である僕も、来た当初は会話が本当に下手だったのですが、誰と話しても優しく対応していただき何度も救われる思いをしました。これらは、レストランなど研究所以外の日頃の生活でも感じることが多く、僕がドイツを気に入っている点の一つです。ドイツに来て1年以上経過しますが、研究・ワークに全てを注ぎ込むのではなく、もっとライフを大切にしたいと考えていた僕にとって、ドイツに来たという選択は今の所マッチしていたのではと感じています(電車が来ない、郵便が届かない、ネットが繋がらない、家探しがとんでもなく大変といったインフラに対する不満はもちろんたくさんありますが、これらの生活の不便さは日本の外に出るなら誰しもが経験する宿命でしょうか…)。
今回はネガティブ面には目を瞑り、ドイツPhD生活の魅力について語りました。この記事が少しでも多くの人の目に留まり、進路選択の一助と成れば幸いです。
著者プロフィール
松尾 仁嗣 (Hitoshi Matsuo)
German Cancer Research Center (DKFZ), Doctoral Researcher (Division Immune Regulation in Cancer)。2020年に東京大学理学部生物情報科学科卒業、2022年に同大学院で修士号を取得後、同年9月から現所属。